ケースMODはつまらん

 ここ数年、○○型PCと銘打って、色んなモノにPCのマザーやドライブを収納して楽しんでいる人たちが増えてきている。本当に不思議なのだが、あれの一体どこら辺が凄いのだろうか。ただケースをゴテゴテクリスマスツリーみたいに飾っただけではないか。一言で言えば「ガワだけじゃん」という気持ちだ。


 例えばクルマの助手席に電源やマザー一式載せて、窓からケーブル垂らしたら車型PCなのか?
家の玄関にPC設置して、ケーブル類だけドアの隙間から外に通したら、家型PCなのか? 地面に埋め込んだら地球型PCなのか? 変すぎる。


 例えば、ピラミッド型のマック(hotwierdでニュースになってた)だとか、スタトレのボーグ型PC(Slash Dotで話題に)だとか、ミカン箱PC(impressの企画)だとか、そこらあたりが特に話題になっているが、俺にとってはかなりの違和感がある。

確信犯・世界観などの誤用について

 知っている人は多いと思うが、「確信犯」の言葉の正しい意味は、宗教のテロなどのように「それが正義的・正しい行いであるであると信じて行う犯行」という意味である。しかし世間では「わざと、故意に行う犯行」という意味で通ってしまっている。誤用の方を正しく言うと「故意犯」になる。


 確信犯が誤用されまくっていることは、一部ではよく知られているが、それでも世間一般では未だに誤用される。確信犯という言葉を本来の意味で使いたいときに困ってしまう。


 正確に書くなら故意犯あたりになるだろうが、これにしても意味が少し違う。故意犯は「わざとやった」という意味になるが、確信犯は、「ウケ狙いでやった」「じっくり計画を練ってからやった」という意味を含むことがあり、微妙な差がある。しかし、わざと確信犯を誤用で使うのも、気が引ける。


 某自アンで、それでは確信犯は今後なんと言えばいいのかという話になって、「『確信犯(誤用)』とするのがよい」という結論になっていたが、代替できる言葉が見あたらないので、しばらくはそれを使うしかないかもしれない。


 しかし、細かい意味の違い程度なら、「通じればよい」ということで誤用でも気にしないが、確信犯の場合、明らかに誤用で意味が違うので、まあいいか、と簡単に済ませられるようなものでももないような気がしないでもない。


 また、その同じ例としては「世界観」の誤用もある。これも突っ込むたびに、通じるんだからいいじゃないか論が繰り出されるのだが、これも明らかな誤用なので直すべきだと思うのだ。もっともこちらは単に「世界」で代替すればいいだけなので話は早いが。


 しかし、言葉というものは時と共に変わっていくものでもあるまで、あまり全て広辞苑通りにするべきだとも思わない。もし広辞苑通りにするべきだというのであれば、現在の確信犯の誤用の意味の言葉を新しく作る必要が出てきてしまうが、そんなことは不可能だ。だから確信犯はこれからも誤用で使い続けられるだろうし、また使い続ける必要もある。そうなると、広辞苑がそれに対応するの筋ではなかろうか。


 そもそも広辞苑が何より正しいと言うことになっているがこれからして間違いだ。言語や言葉は、プログラム言語みたいに厳密な定義があるわけではない。一つの言葉も、多くの人が使うようになれば、それが正しい意味となる。ならば、もはや確信犯や世界観の現在の誤用は、もはや「正しい」としてよいレベルにまで普及していると俺は思うのだ。広辞苑に誤用の方の意味が参照として掲載されるのも、そう遠くはないと誰かが言っていたが、俺もその通りだと思う。


 話は変わるが、あらゆる雑誌、書籍で誤用が氾濫しているのをみると、なぜここまで誤用が広がったのか興味を持つところではある。


 追記:細かい意味の違いと言えば、例えば感動したときに使う「鳥肌が立つ」。正確には、"不快感から"ぞっとするという意味で、鮫肌になることを総称しているわけではないのだが、これは変わりの言葉がないと言うこともあるので微妙な違いとして片づけても構わないだろうと思う。

解像度が未だに1024*768というのは…

 俺は常々思うのだが、最近のPCは、やたらCPUの周波数が高かったり、メモリ量が増したり、OSがこぞってXPに以降したりしているが、まあメモリは確かに256MB程度では少ないしOSはハードの進化と共に最新版を入れるのが基本だろうが、なぜモニターの解像度は未だに1024*768が主流なのだろうか。


 Athlon900MHz 256MBという貧弱な環境の俺だが(そろそろ新しく組む予定)、一番欲しいと思うのはモニタの解像度だ。もう今の時代、1ランク上の解像度が一般的なのかなと思って解像度別普及率を見たらそうでもないようだった。


 モニタのインチ数はちょっと大きくなっても、解像度は1024*のままらしい。俺のCRTモニタは古くておまけに13.5インチしかないが、解像度は1024*768である。かなり以前から1024で続けてきた。大体1024*768が出てきたのは、かなり昔の話じゃないか。妙な話だ。

不正な処理

あの「不正な処理」の警告を喰らった人は、自分は何も悪いことをしていないのに、と大抵思う。が、"不正"という言葉は、本来"正しくない"ということであって、道徳的に良くない犯罪的な行為をする、という意味合いは含まれない。単に、プログラム的におかしいですよ、ということを言いたいわけだが、一番適当な言葉が、正しくないという意味である「不正」なので、それが使われているのだろう。

アニメーションの利点

 最近ピーターパンが実写版映画として公開されている。まだ見ていないので、文句をつけるのは食わず嫌いみたいなもんでよくないのかもしれないが、ピーターパンはアニメでこそ生きるものだと思う。


 ピーターパンが空をぐるぐる飛んだり、空中でぐりぐり動いたり、妙なオーバーリアクションでウェンディーをからかったり、フック船長を相手に甲板上でこれまた奇抜な動きでサーベルを振ったりするのがよいのであって、実写では迫力ある動画にすることが難しくなる。


 やはりアクションシーンや、動きの激しいシーンでは、動画はアニメに後塵を拝す結果となる。見ていて迫力があったり、格好良い動画を作るという点では、アニメのほうが遙かに有利なのだ。


 アニメ(又は3DCG)では、現実では不可能な素早い動きや、トリッキーな動きが表現できる。一方実写はしょぼいので、アニメを見慣れていると、例えば映画の格闘シーンや、殺陣シーンなんかもすべてしょぼく見えてしまう。別にアニメ好きの主張、というわけではない。ただ単純に、動画の質において、アニメは実写を遙かにしのぐのだ。アニメをよく見ている人は、同じことを思っていると思う。


 最近では、そうだな、R.O.Dあたりの作画動画が素晴らしいと謳われているアニメのアクションシーンは、そこらの映画を遙かにしのぐ迫力があるように思う。
また、アニメというより、二次元のアドバンテージというのもある。三次元では矛盾が生じるものでも、平面上では表現できるカットも作れる。故に、ジョジョ立ちのような、実現不可能ではあるが、二次元では実現可能な格好良いポーズ、というものも二次元では表現可能である。アニメーションのアドバンテージを賞賛すれば賞賛するほど、ますますオタの主張っぽくなってくるので困るが、まあいいたいことは分かるだろう。


 まあそういうわけで、俺はアニメーションという手法は、映像作品を作成する上では最も優れた媒体であると期待している。だから、ピーターパンを実写でやる意味は特にないし、アニメに劣ることは明らか、せいぜいアニメを上回る利点と言えば、アニメ嫌い実写大好きな人間に気に入られると言うことくらいか。


つづく

MMORPGを止める方法

どんな娯楽より中毒性が高いと言われネットゲーム(MMORPG)だが、MMORPGに限って言えば、『キャラ削除』や『アイテムばらまき』などをすることですっぱり止めることが出来る。


 MMORPGにはキャラ育成の中毒性があるが、その分育てたキャラが消えると一気にやる気を失う。これを利用すれば、きっぱりと止めることが出来る。


 FPSなんかのゲームではこうはいかないが、その反面MMORPGに比べて中毒性が低いので(キャラ育成だとか、仮想社会みたいなものがないから)、中毒にまでなりはしない。


 収益を上げたい運営側としては、そう簡単にキャラクターを削除できるようにしてはいけないようにすればいいだろう。実際、他もやっているだろうが、Tibiaなんかはキャラクター削除命令をこちらが出しても、実際に削除されるのは一週間後で、それまでの間はいつでも復活できるので忍耐の期間となる。一時的な『気の迷い』で削除されないようになっているわけだ。

スパムが迷惑?

 迷惑メール、いわゆるスパムが迷惑だ迷惑だと世間では言っているが、俺は排除するべきものではないと思っている。


 ひとつのメールアドレスが存在するなら、そこに広告が来るのは当たり前であり、業者からは一切メールは届かず、知人だけから来ると考える方がおかしい。


 メールというのは、情報の受け口である。それを開いている以上、いろんな情報が入ってきて当たり前なのだ。川や海に網を張れば魚やらゴミやら砂やらが引っかかる、アンテナを立てたら近い局と混信する、といったことと同じである。受信可能なメールアドレス(アカウント)を作った以上、広告だろうが、フラッシュモブ(突発OFF)の案内だろうが、様々な情報が入ってくるのは当たり前である。情報は流れるものであって、情報を流すことを止めさせる権利は持たせてはいけないと思う。情報というものは、そう言うものなのだ。まあそれについて詳しくは別のところで書くが。

 
 つまり、いやなメールを受信したくないと思うなら、何らかの方法でフィルタリングするのが当然の義務であって、「広告メールを送られない権利」なんて言うものはないわけだ。なのに連中は、そんな存在しない権利を主張している。すると、今度はどこからどこまでが広告なのかとか、人によっては必要な広告もあるはずだとか、そう言う問題が出てくるが、元々矛盾しているから悪いのだ。


 俺自身、いわゆるスパムなどの広告で目を引かれたものがないわけではないから特にそう感じる。

あー続きはまた今度