確信犯・世界観などの誤用について

 知っている人は多いと思うが、「確信犯」の言葉の正しい意味は、宗教のテロなどのように「それが正義的・正しい行いであるであると信じて行う犯行」という意味である。しかし世間では「わざと、故意に行う犯行」という意味で通ってしまっている。誤用の方を正しく言うと「故意犯」になる。


 確信犯が誤用されまくっていることは、一部ではよく知られているが、それでも世間一般では未だに誤用される。確信犯という言葉を本来の意味で使いたいときに困ってしまう。


 正確に書くなら故意犯あたりになるだろうが、これにしても意味が少し違う。故意犯は「わざとやった」という意味になるが、確信犯は、「ウケ狙いでやった」「じっくり計画を練ってからやった」という意味を含むことがあり、微妙な差がある。しかし、わざと確信犯を誤用で使うのも、気が引ける。


 某自アンで、それでは確信犯は今後なんと言えばいいのかという話になって、「『確信犯(誤用)』とするのがよい」という結論になっていたが、代替できる言葉が見あたらないので、しばらくはそれを使うしかないかもしれない。


 しかし、細かい意味の違い程度なら、「通じればよい」ということで誤用でも気にしないが、確信犯の場合、明らかに誤用で意味が違うので、まあいいか、と簡単に済ませられるようなものでももないような気がしないでもない。


 また、その同じ例としては「世界観」の誤用もある。これも突っ込むたびに、通じるんだからいいじゃないか論が繰り出されるのだが、これも明らかな誤用なので直すべきだと思うのだ。もっともこちらは単に「世界」で代替すればいいだけなので話は早いが。


 しかし、言葉というものは時と共に変わっていくものでもあるまで、あまり全て広辞苑通りにするべきだとも思わない。もし広辞苑通りにするべきだというのであれば、現在の確信犯の誤用の意味の言葉を新しく作る必要が出てきてしまうが、そんなことは不可能だ。だから確信犯はこれからも誤用で使い続けられるだろうし、また使い続ける必要もある。そうなると、広辞苑がそれに対応するの筋ではなかろうか。


 そもそも広辞苑が何より正しいと言うことになっているがこれからして間違いだ。言語や言葉は、プログラム言語みたいに厳密な定義があるわけではない。一つの言葉も、多くの人が使うようになれば、それが正しい意味となる。ならば、もはや確信犯や世界観の現在の誤用は、もはや「正しい」としてよいレベルにまで普及していると俺は思うのだ。広辞苑に誤用の方の意味が参照として掲載されるのも、そう遠くはないと誰かが言っていたが、俺もその通りだと思う。


 話は変わるが、あらゆる雑誌、書籍で誤用が氾濫しているのをみると、なぜここまで誤用が広がったのか興味を持つところではある。


 追記:細かい意味の違いと言えば、例えば感動したときに使う「鳥肌が立つ」。正確には、"不快感から"ぞっとするという意味で、鮫肌になることを総称しているわけではないのだが、これは変わりの言葉がないと言うこともあるので微妙な違いとして片づけても構わないだろうと思う。